フライシャー兄弟|Fleischer brothers

フライシャー兄弟|Fleischer brothers

兄のマックス・フライシャーMax Fleischer(1883‐1972)はオーストリアのウィーン生まれ。弟のデーブ・フライシャーDave Fleischer(1894‐1979)はフライシャー家がニューヨークに渡ってから生まれている。フライシャー兄弟と表記するときには、この二人を指すのが一般的。

のちには音楽を担当することになるルー・フライシャーLou Fleischer(1891–1985)など他の兄弟もアニメーションに深く関わる。『ミクロの決死圏』(1966)などの監督リチャード・フライシャーはマックスの子。

インクウェル・スタジオ|Inkwell Studios時代

1921年、ブレイスタジオから独立した兄弟はインクウェル・スタジオを設立。さまざまな作風の作品を世に送り出す。

『インク壺の外へ(Out of the Inkwell)』シリーズ(1918 -1929

ブレイスタジオ時代から作っていたシリーズで、フライシャー兄弟による最初のキャラクターである道化師ココ Koko the Clownが登場する。マックスが考案したロトスコープを最大限に活用した。

『ソング・カー・テューン(Song Car-tunes)』シリーズ( 1924 -1927)

歌詞の上をボールが弾み(バウンシング・ボール)、観客が音楽に合わせて歌うように作られたシリーズ。パラマウント社と契約してからは『 Screen Songs』(1929–1938)と銘打った。トーキー映画が人気を博すようになるまでは、映画はヴォードビル(演芸)劇場での出し物のひとつという位置づけであった。これらはカラオケの元祖的存在と言われることが多いが、現在だと『キンプリ』シリーズなどの応援上演の元祖といったほうが感覚的に近く理解しやすいだろう。

科学映画

科学啓蒙の時代の空気のなか、フライシャー兄弟は1923年に『アインシュタインの相対性理論』と『ダーウィンの進化論』を映画化している。『ダーウィンの進化論』では、恐竜の格闘をクレイアニメーションで表現しているから驚く。https://youtu.be/oaHBHNMMKfc?t=23m20s

 

フライシャー・スタジオ(Fleischer Studios)時代

パラマウント社と配給契約を結んだ兄弟は、1928年、製作体制を拡大して、フライシャースタジオを設立した。ときあたかも、前年大ヒットした『ジャズ・シンガー』の影響で、トーキー映画の時代が到来。まずはベティ・ブープが、次にポパイが人気を得たことで、ディズニーと並ぶ存在となった。

ベティ・ブープ

犬のフレンチプードルとして短編に登場後、人間としてデザインされる。脇役を演じていたが、やがてベティ・ブープと名前がつき、『ベティの家出(Minnie The Moocher)』(1932)でセクシーな女性キャラクターとしての個性が発揮されるようになる。性的な意味での“女性”を演じた最初のアニメーションキャラクターとして大人気となったが、ヘイズコードの導入(1934)により、性的ニュアンスを消さなくてはならなくなり、それとともに人気も低迷した。

ベティ・ブープについては、筒井康隆『ベティ・ブープ伝―女優としての象徴 象徴としての女優』に詳しい。

『ベティの家出(Minnie The Moocher)』セイウチのアニメーションは冒頭にも登場しているキャブ・キャロウェイの動きをロトスコープで写しとり利用した。

長編映画への挑戦

ディズニーの『白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs)』(1937)の成功を受け、フライシャーは念願であった長編映画制作に乗りだす。一作目の『ガリバー旅行記』(1939)、ついで満を持して『バッタ君町に行く(Mr. Bug Goes to Town)』(1940)を発表するが、公開2日後に日本軍の真珠湾攻撃というタイミングでの公開で興行収入は予算を大きく下回り、以前からくすぶっていた配給会社パラマウント社との確執は大きなものとなり、スタジオは空中分解してしまう。

スーパーマン

『ガリバー旅行記』の成功により、パラマウント社は二次収入を見込んだキャラクター主導のアニメーション製作を模索していた。そこで、DCコミックスに連載されていた『スーパーマン』の映画化権を取得し、フライシャーに制作を打診する。フライシャーは自スタジオに著作権がないこともあり難色を示すが、財政的に逼迫していたことから引き受けることとなる。短編として連作された。